日の丸カレッジ

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涙を禁じえない吉田松陰の遺言

この記事の内容 大河ドラマ『花燃ゆ』のオープニングの意味
吉田松陰のやむにやまれぬ行動とは
松下村塾の特徴から見る「友」の意味

 

 

吉田松陰が遺した二つの言葉

吉田松陰と金子重輔



 

今回の記事は、近ごろ泣いていないという人にぜひ読んでほしい内容です。私はここ二日、ゴミ箱がティッシュまみれです。

 

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

 

かく(斯く)とは「こう、このように」という意味なので、「こうすればこうなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂という意味になります。

 

当時、幕府は諸藩に外国との交流を禁じており、外国へ渡った場合は死罪になりました。ゆえに、西洋の知識や文明は幕府が独占している状態でした。しかし、日本を憂う松陰先生は、西洋の文明を学ぶために

 

「どうか、私をアメリカへ連れて行ってほしい」

 

という思いの丈を綴った手紙をペリー一行に渡し、翌日の深夜、ふたたび小舟でペリーの船へやって来ました。

 

あいにくペリーは就寝しており、対応したのはペリーの部下でした。条約を締結したばかりで、幕府との関係悪化を恐れたペリー一行は、「ぜひ連れて行きたい」と思いながらも、結果的にこの申し出を断ります。

 

陸に戻った松陰先生は自首をし、江戸の獄舎へ送られることとなります。

 

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂

 

この歌は、赤穂浪士が眠る高輪の泉岳寺の前で詠まれたものです。松陰先生は、9歳の時に萩の藩校「明倫館」で教鞭をとったほどの神童です。後先が分からないはずはありません。

 

「それでもそうせざるを得ないのだ」

 

それは、赤穂浪士も松陰先生も同じでした。

 

日本の前途はなんと有望であろう!

 

吉田松陰と面会することはなかったペリーですが、その知識欲・好奇心・愛国心・洗練された振る舞いなどにいたく感銘を受け、『日本遠征記』に次のように記したそうです。

 

この事件は、日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。日本人は疑いなく研究好きな国民で、彼らの道徳的、知的能力を増大させる機会は、これを喜んで迎えるのが常である。この不幸な二人の行動は、日本人の特質より出たものであったと信じる。国民の抱いている烈しい好奇心をこれ以上によく示すものはない。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか。

在NY日本総領事館「日米交流150周年記念」アメリカ人が吉田松陰にみた日本の前途|https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/exepi1.htm(2021年3月19日アクセス)

 

愚なる吾れをも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々

 

2015年に放送された大河ドラマ『花燃ゆ』

 

私は数回で観るのを挫折してしまいましたが、本作のOPは今でも印象に残っており、『平清盛』『天地人』『秀吉』『風林火山』と合わせて歴代トップ5に入る名曲だと思っています。

 

※リンク切れの場合は、「花燃ゆ OP」で検索してみて下さい。 

 

 その『花燃ゆ』のOPではこんなコーラスがあります。

 

〽愚かなる 吾れのことをも 
友とめづ人は わがとも友(ども)と
吾れをも 友とめづ人は 
わがとも友(ども)と めでよ人々
吾れをも 友とめづ人は 
わがとも友(ども)と めでよ人々 燃ゆ

 

大意は「愚かな私のことを友だと大事に思ってくれるなら、私の友のことも同じように大事にしてほしい」

 

これは、松陰先生が獄中で書き遺したとされる『留魂録に収められた句をもとに考案されたものだそうで、原詩は次の通りです。

 

討たれたる吾れをあはれと見ん人は
君を崇めて夷払へよ
愚なる吾れをも友とめづ人は
わがとも友とめでよ人々

 

「夷」とは「東方の野蛮な国」のことですが、アメリカのことだけではなく世界中で猛威をふるっていた西洋列強全般を指していると思われます。

 

「友」とは「松下村塾の塾生」のことらしいです。「めづ」は「愛づ」のことでしょう。

 

「愚かなる」というのが、黒船に乗り込もうとしたあの「やむにやまれぬ」行動と結びついてしまい、思わずほろっと涙がこぼれます。

 

互いに「○○くん」と呼び合う松下村塾

 

先ほどの遺言の中で教え子を「友」と呼ぶことに違和感を覚えたのですが、私はすぐに松下村塾特有の風習を思い出しました。

 

そう、あの「くん付け」の風習です。

 

何の作品だったか忘れましたが、この慣行に他藩のサムライたちが「ギョっとする」描写があるんですよね(笑)

 

明倫館が士族の子どもたちが通うエリートの藩校だったのに対し、松下村塾は農民の子どもたちも受け入れた雑草集団(月謝も取らなかったとか)。

 

身分差があるので当然、目下の者は目上の者に意見がしにくかったわけです。今でも、宛名を書く時などは

 

目上から目下の者へは「殿」
目下から目上の者へは「様」

 

を付けますよね。これでは議論の妨げになると判断した松陰先生は、身分差を問わない新しい敬称を創出しました。それが「君」です。

 

身分制度がはっきりしていた江戸末期、長州藩(現在の山口県)では吉田松陰が若者に学問を教えていた。塾生には農民出身でありながら後に初代内閣総理大臣になった伊藤博文や、下級武士でありながら二度も内閣総理大臣を務めた山縣有朋、騎兵隊を創設した武家出身の高杉晋作尊王攘夷運動のリーダー的存在となった医者の久坂玄瑞など、幕末から明治にかけて活躍し、新しい日本を築きあげた若者たちが数多く在籍していた。
当時松下村塾には武家出身の者から農民出身の者までさまざまな身分の若者が集まっていたため、対等な立場で議論すべき時にも、身分の差によって下の者は意見できないことがしばしばあった。その様子を見た松陰は、対等な議論ができるようにするため、敬称を統一することを思いついた。当時は目上の者から目下の者へは「殿」、目下の者から目上の者へは「様」と身分の違いによって敬称が分かれていた。そこで、松陰は身分に関係ない新たな敬称を作ることにした。そして生まれたのが「君」という敬称。
どんな身分の者にも共通する敬うべき人物と言えば「君主」「主君」。そこで、「君」と付けて呼び合えば、対等な立場になり、相手に敬意も込められると考えた。現在当たり前のように使われている「くん」という敬称は、吉田松陰が塾生の身分差の意識を作らせないために使用したものだった。

TBS「この差って何ですか!?」2018年7月17日放送分|https://www.tbs.co.jp/konosa/old/20180717.html(2021年3月19日アクセス)

 

 

この背景を知ると、「友」というのが松下村塾の門下生たちのことであるという説明も納得できます。

 

もっといえば、現在の「友だち」という意味ではなく、志を同じくする仲間、つまり「同志」というニュアンスに解釈できるでしょう。

 

「愚かなる私のことを同志だと思ってくれるなら、志を同じくする仲間たちを同じように大事にしてほしい」というニュアンスで、あのOPの歌詞を口ずさんでみてください。

 

さっきよりも、涙があふれてきませんか?

私はもう涙がポロポロと止まらなくなりました。

作曲者の川井憲次さん、天才すぎませんか?

きっと、松下村塾の方々も草葉の陰(あの世)でお喜びになっていますよ。

 

吉田松陰留魂録』が読めるサイト

 

松陰先生の遺言『留魂録』の所在を確認したところ、北海道から佐賀にいたる図書館が19件ヒットしましたが、どこも気軽に行ける場所ではありませんでした。

 

そこで、手っ取り早く『留魂録』を読みたいという方には、こちらのサイトをおすすめします。

 

吉田松陰留魂録』|青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001741/files/55749_62874.html

 

吉田松陰が祀られている正松神社

正松神社



 

実は私、乃木将軍が大好きでありながら、松陰先生のことはあまり知りませんでした。

 

しかし、乃木神社に参拝した際は、摂社の「正松神社」にも必ず立ち寄っています。ここには、乃木将軍が訓育を受けた玉木文之進先生(松陰の叔父で松下村塾を開いた人)と吉田松陰先生が祀られているからです。

 

乃木神社|境内の案内
https://www.nogijinja.or.jp/map.html

 

乃木先生と松陰先生は互いに会ったことはないのですが、乃木少年は玉木先生から「立派な人間だった」「お前もあのような人間になれ」と、松陰先生の事績や人となりを言い聞かされて育ったといいます。

 

こうやって、後に続く者たちが偉人だらけであったことを考えると、やむにやまれぬあの行動が、決して無駄骨では無かったことを物語っていますよね。